食農教育 No.41 2005年5月号より
実際家の視点とアイデア …人と生きもの………
一杯のごはんの向こうにカエルが見える
▼農と自然の研究所代表 宇根 豊
毎日、なにげなく口にしているごはん。それがさまざまな生きもののいのちとつながっていることを意識したことがあるだろうか。宇根さんは田んぼで育つ生きものの実態調査をもとに、ごはんと生きものの関係を簡単な図であらわすことで、〈田んぼのめぐみ〉が目にみえるようにした。 【編集部】
食べものの内部に向かうまなざし
「ごはんは、人間の命の糧である」と百姓は主張してきました。ごはんを、食べものと言い換えてもいいでしょう。そして、このことを科学は、カロリーや栄養素として分析して、裏づけました。そこでやめておけばよかったものを、分析の手口はさらに精緻になり、粘りや香りの成分まで明らかにし、あまつさえ米に「食味値」なる点数までつける分析機械が普及してしまいました。
ごはんを食べます。香りが立ちこめるでしょう。歯ごたえがあり、味を感じます。そうなのです。感じるのです。ところが、そのあとがいけないのです。その粘りや味の原因を、科学的に成分で、しかも数値で説明しようとします。これが科学の悪い性格です。たとえば「アミロース含量12%の米」と説明されて、粘りを感じる感性は、深まるでしょうか。「感性は深まらないかもしれないが、本質は明らかになる」と科学は考えます。そのことを無駄だとは思いませんが、その程度の「本質」しか見えないのですか、と言いたくもなります。
ごはんの価値を、米の内部に内部に向かわせようとしていることが、私には異常に思えます。それは、ごはんを人間が生きていくための、素材にしてしまうのではないでしょうか。「命の糧で何が悪い」と反論されそうですが、「人間だけの糧ではない」と断固として言い張りたいのです。まなざしが、ごはんの内部に向かうなら、人間のための栄養しか見えなくなるのです。自分の空腹を満たし、活動のエネルギーを補給する食材に過ぎなくなってしまっています。
車窓からの風景と駅弁とのあいだに
その証拠をお目にかけましょうか。アメリカから駅弁を輸入しているJR会社があります。その駅弁を広げて、車窓から、東北の田園の風景を眺めながら食べる旅は、たぶんいい旅なのでしょう。しかし、カリフォルニア米ではなく、目に映る田んぼからとれた米で炊いた駅弁なら、その食事は、目の前の風景とほんとうに一つになれると思いませんか。
成分で比べるなら、カリフォルニアの米のほうがひょっとすると、無農薬だから安全で、おいしいかも知れません。それに安いのですから、購入する人に、何のこだわりも、うしろめたさも生じません。その程度の価値観でいいのか、と問うているのです。安くて、おいしくて、安全で、いつも手にはいるなら、輸入食料でもかまわないと、むしろ選択肢が広がっていいと考える国民が少なくないのです。ですから、輸入肉の牛丼店では、一日に150万食も売れるのでしょう。
田んぼはカエルを育てる(脚がはえたばかりの雨蛙) しかし、輸入駅弁や牛丼を食べている人たちには、罪はないのかもしれません。食べものの価値は、内部の価値だけ、つまり人間に役立つ価値だけだと、教育されてきたのですから。百姓も、その程度の表現ですませてきたのですから。ところが、これほど自然が荒れてきて、これほど農地が荒れてきて、これほど輸入食料が増えて、国内農業が衰退してくると、これはもう放置できる事態ではなくなってきたのです。そこで、ごはん(食べもの)のもう一つの価値に着眼せざるをえないのです。その価値は、内部にではなく、外部に広がっています。
ごはんを食べることで育つ生きものたち
日本にはカエルが、16種類いますが、そのうち12種類が田んぼで産卵します。池などの水辺に比べれば、田んぼの面積は膨大なので、カエルの95%以上は田んぼで生まれていると言ってもいいでしょう。つまり、田んぼがないと多くのカエルは生きていけません。田んぼはもちろん百姓がいなくては、成り立ちませんし、そこにイネという植物が育たないと意味をもちません。その稲は、ごはんにして食べてくれる人がいなくては、植える価値がでてきません。イネが田んぼで育つから、カエルも一緒に育ってしまうのです。
表 2001年 田んぼのめぐみ台帳生きもの目録調査結果・
全国平均値(一部) 2002年3月発表 農と自然の研究所個体数/10a 1株あたり
個体数1匹あたり
何杯オタマジャクシ 230,000 11.5 0 赤蛙 17 0.00085 392 ヒキ蛙 5 0.00025 1,333 殿様蛙 59 0.00295 113 シュレーゲル青蛙 6 0.0003 1,111 日本雨蛙 99 0.00495 67 土・沼ガエル 1,083 0.05415 6 第1回ミジンコ 33,950,000 1,697.5 0 第2回ミジンコ 6,3300,00 316.5 0 カブトエビ 24,000 1.2 0 豊年エビ 70,200 3.51 0 貝エビ 42,000 2.1 0 ゲンゴロウ類 528 0.0264 13 タガメ 1 0.00005 6,667 タイコウチ 22 0.0011 303 水カマキリ 25 0.00125 267 メダカ 80 0.004 83 ドジョウ 46 0.0073 46 平家ボタル 32 0.0016 208 アメンボ 374 0.0187 18 秋アカネ・夏アカネ 2,110 0.1055 3 白鳥たち 1.7 0.00000017 1,960,784
カエルを、トンボやメダカやホタルやゲンゴロウや白鳥やコウノトリと言い換えてもいいでしょう(表)。そうなのです。「自然」と呼んでもいいのです。その田んぼのごはんを食べる人間がいるから、その田んぼの自然の生きものが育つのです。百姓は、その取り次ぎをしているのです。
一杯のごはんと生きものを数式で結ぶと
図を見てください。
「ごはんと生きものの関係」の図の一部 ごはん 米粒 稲株 オタマジャクシ = = = 1杯 3500粒 3株 35匹 一杯のごはんは、何粒でしょうか。ぜひ自分で数えてみてください。数千粒ですが、これは、イネ3株分の米です。ここまでは、すぐに理解できるでしょう。ところが、これがオタマジャクシ35匹とつながっていることが、理解できない人が少なくありません。田んぼに入ったことのある子どもたちは、あっさりと言います。
「そのイネの周りに、オタマジャクシが35匹泳ぎ回っているんだよ」
実に不思議なことですが、イネもオタマジャクシも、畦塗りや代かきや田植え、田回りという百姓仕事によって育ちます。この図はこのことを表現したかったのです。
自分の命の糧としてごはんを食べるということが、オタマジャクシを育てるためにごはんを食べると言い換えられることの意味は、とても大切です。それは単に農業の価値はこんなところにもある、ということだけでなく、人間は自然の生きものと「食事」をとおしてでもつながっていることが実感できるからです。では「食事」以外では、どういうときに、どういう場でつながっているのでしょうか。たとえば風景をながめるときでしょう。そこで、もういちど田舎の風景をながめながら弁当を食べる旅行者を思い浮かべてください。そこで、風景(自然)と食事のつながりが切れてしまっていることに、気づくでしょう。
ごはんを食べる、そのときにこのごはんがとれた田んぼの風景や生きものを想像できることは、本来楽しいことではないでしょうか。その楽しみを、取り戻そうと思います。
※「ごはんと生きものの関係」の図をカラーの下敷きにしました。A4判1枚200円(送料250円)。お申し込みは左記まで。
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